ふるさと優秀賞を受賞
(「毎日・ふるさとの主張コンクール」にて)


2003年度の毎日新聞社主催「毎日・ふるさとの主張コンクール」に当会の会長である
宮田信夫氏が執筆した 「ふるさとを創る・(副題)学習と癒しの公園づくり」 が見事
「ふるさと優秀賞」受賞の栄誉に輝きました。

赤羽緑地/自然観察ふれあい公園が出来上がるまでの経緯・ご苦労話を通じて
公園づくりにかけた情熱が評価されたものと思います。

「ふるさとを創る・(副題)学習と癒しの公園づくり」はこちら

 

ふるさと賞状

喜びの宮田信夫会長


 

ふるさとを創る(学習と癒しの公園づくり)


赤羽緑地を作る会 代表  宮田信夫

 赤羽緑地を作る会の誕生

 今年のみどり日に日立市が市民の参加を得て緑地公園を完成させた。名づけて赤羽緑地(愛称・自然観察ふれあい公園)である。場所は日立市の南端久慈町5丁目地内。JR常磐線大甕駅より水戸方面に向かい発車後1分足らずで眼下左側に久慈町市街地を通して遠く太平洋が見えるとこに差しかかる。この反対側で団地の家並みの屋根の下に緑の森と池の見えるところがある。ここが今回紹介する緑地公園になった所である。市街地でありながら赤松と雑木に囲まれた盆地で人も近寄らない荒廃地だった。これを日立市が平成13年に緑地整備計画に着手し、基本構想を纏めて私たち地域の市民運動協議会や小中学校、老人会などの代表に参加協力の依頼があった。メンバーの中には日本野鳥の会、日立自然保護の会、郷土歴史民族研究会などの指導者もいたが、これらの専門的分野の方々を除いては公園づくりに関しては技術的にも学問的にもズブの素人の方が多かった。ただ参加した方たちは各機関の代表者とか幹部の方たちだったので意思の疎通には事欠くことは無かった。平成13年9月19日第1回会合で顔合わせを行い、その後の会合では先進公園の見学や意見交換を行い4回目の会合の時、会の名称を「久慈赤羽緑地をつくる会」として、以降公園づくり構想提案つくりに着手した。


 
戦前戦後の赤羽というところ

 戦前の赤羽は、周囲の高台は山林で赤松が多く建築用材として使われたり、炭鉱の隆盛時には生長の早いアカシヤを植林して坑木として供給したという。盆地東側はJR常磐線が走っている。西側は緩やかな傾斜地に段々畑があって、中ほどに清水が湧き出して下の溜池に流れ込んでいる。南側は棚田で陽当たりは悪かったが稲作をしていた。北側は岩質の急峻な崖が4列張り出していて横穴が数個見える。戦時中は此処に防空壕を掘って避難した横穴もあるが古墳墓が相当数ある。たまたま昭和50年埋蔵文化財の調査でこの地に貴重な埋蔵文化財があるとのことで、この赤羽地区が区画整理事業の対象から外された。時を同じくして上の高台地区が住宅団地として造成が進み、畑、山林は数年にして住宅街に変貌したが赤羽の地だけが取り残されてしまった。

 食糧事情が良くなり物価も下がってくると田畑の持ち主は耕作を放棄して手入れをしないから田や溜池はヨシやアシが生い茂り畑、山は篠や葛のつたが延び放題で人が入り込めないほど荒廃地と化してしまった。松や杉は立ち枯れが目立ち松などは数えるほどしか残っていない。その中で桜だけは生き残り季節を忘れず花を咲かせてくれていたのがせめてもの慰めである。ところがこの山の薮やヨシ、アシの生い茂った溜池が野鳥たちの絶好の棲み処となっているのも皮肉な現象である。


 
赤羽緑地をこんな公園にしたい

 今回の開発に当って市当局から示された整備基本方針は、ここ赤羽の地特有の歴史的文化遺産と自然環境を有効に活用して、子供からお年寄りに至るまで幅広い世代の人たちに提供する事業であった。その具体的事項として次の2項目を確認する。
 1.人と自然と歴史が共存する公園とする。
 2.立地的に恵まれた環境資源を有効に利活用する。
   イ、広い水辺と豊かな自然の中で水生生物、野鳥などの保護
   ロ、埋蔵文化財の保全と学習の場を提供
 赤羽緑地をつくる会として作業に先だって公園づくりの勉強会として、先に工事に着手していた市内の「イトヨの里泉が森公園」の進捗状況と準備段階から着工に至るまでの経緯を聞いたり、先進公園として注目されていた潮来市の「トンボ公園」などを見学し公園づくりのノウハウを学んできた。これらのことを念頭において全体会議と専門別会議で自由討論形式で、この公園をこうしたい、あのようにしたい、と意見を出して貰った。全体会議で14件、野鳥班20件、水生生物班17件、歴史班10件、計61件の提案が出された。これを専門家のアドバイザー会議に諮って赤羽緑地整備提案書として決めた。この提案の中から主な項目を構築物別、要素別に分類したのが表1(省略)で、工事に取り入れられたものには、提案事項の頭に◎印を、今後も市当局に働きかけたり守る会として計画していくものを※印で表記した。
 工事は順調に進み着工から2年の短期間で完成した。山裾のつたは刈り取られ篠薮は刈り払い貴重な横穴墓も白日の下に姿を現した。遊歩道の湿地部分には木橋が掛けられ、小さい池には念願の浮橋も架けられた。緑地の完成を記念して小中学生、一般から緑地の愛称を募集したところ323件もの応募があり、この緑地に対する住民の関心が多かったことに驚きと喜びで一杯だった。緑地をつくる会の役員の予備審査のあと小中学校長と市役所都市計画課長等で慎重審査の結果、久慈小学校6年生 鈴木慶太さんの作品「自然観察ふれあい公園」が見事入選の栄誉に輝いた。赤羽緑地の公園オープニングセレモニーは、みどりの日を記念して植樹祭を兼ねて行ったので、学区内5の小中学校長と代表者、来賓一般参加者の他に日立市森林愛護隊員(市内ボーイスカウト、ガールスカウト)262名の特別参加もあり盛大に行われた。市関係当局は勿論、私たち赤羽緑地をつくる会一同も感慨無量のものがあった。


 ここが違う新しい公園


 昔々その昔この赤羽は入江だったという。入江の北側に四つの突端があってその崖の中腹に横穴墓がある。5世紀から6世紀ころの墓と推定されている。昭和50年の区画整理事業の際の発掘調査で43基確認されたが、又埋め戻されて今は数基しか見えない。その時の調査でB支丘の突端部の横穴墓から冠の装飾品の一部が発見された。この飾り物は全国的にも例の無い物で、身分の相当高い人の墓だったことが推測されている。なぜそのような人の墓が此処にあるのか、そのような人がこの地に居住していたのか、居たとすればその背景は何か、今の段階では分かっていない。手を掛けずに保存した方がよいという説も聞かれるが学究当事者の動向を見守るしかない。ロマンを秘めた歴史的文化遺産であることだけは間違いない。研究のきっかけにくれればと願っている。
 この近くに茂宮川が流れていて、その両側に田畑があり、そこから水鳥類が飛来するという。池のヨシ、アシ、柳の除去には水生班と野鳥班の提言に差異があったが、上と中の池の草木は大部分残された。遊歩道周辺の篠・蔦類は刈り払いされたがその奥の山はそのまま残しているので、鳥の営巣、水遊びには支障ないと思われる。平成14年から今年にかけて、ここで観察された野鳥は60余種(野鳥のページ参照)と報告されている。四季を通して飛来する鳥が違うので、その折々に観察会や水生生物の観察会などを計画して赤羽の恵まれた特有の地を利活用した活動をして行きたい。
 久慈町市街地内では近年蛇の姿があまり見られなくなったという。これは蛇の餌となる蛙や地中小動物がいなくなったので、池、湿地の餌を求めて赤羽地区に移ってきた自然現象であろう。遊歩道ができ木道もできてマムシに噛まれる(注意さえすれば)心配もなくなった。春は若葉が萌え桜の季節になれば花見もできます。夏近くなれば深い緑に包まれた林の中でベンチに腰をおろし、一息入れると目の前の池の中ではヨシの間々で水鳥が水と戯れている。耳を澄ませば森の中から小鳥の嬉々とした鳴き声が聴こえて来る。日頃の疲れはきっと癒されるでしょう。

赤羽緑地/自然観察ふれあい公園


 
赤羽緑地を「つくる会」から「まもる会」へ

 赤羽緑地をつくる会は、13回の会合の中で市民の声として要望提案をして、その中から多くの提言を取り上げて工事の中に組み入れていただき、4月29日の開園の運びとなった。つくる会は一応その役目を果たしたということで一度幕を下ろすことにし、同日同じメンバー(一部退会する人もあり)に新しく加入者を募り、組織も変えて「赤羽緑地を守る会」を結成した。ボランティア団体として平成15年6月10日付けで日立市公園里親の認定を受けました。
 開園後ここを訪れた人からは褒められる言葉もありますが苦情、質問もあります。例えば、依然としてマムシの恐怖、池の柵が低くて危ない、最終排水溝の蓋をして欲しい、など。池の脇に建っている塀みたいな小屋(野鳥観察用ブラインド)は何なの?雨よけにもならない、というのもあります。これらの事は守る会員が巡回の中で、それらの人の話を聞いて納得のいくような説明をしてやらなければならない。
 また、提案事項の中に今後取り上げて貰いたい事項が残っているし訪れた人からも種々要望事項も出てくると思われる。特に小学生の学習の場として安全に、そして自然にやさしく安心してふれあえる場をつくり「人と自然と動植物との共生」の理念を育んでいける環境の整備を目指してゆきたい。
 この子たちの「よきふるさと」になることを念じて。
                                                おわり(平成15年8月)

(注: 添付の表が省略され、写真もオリジナルと同一でないことをお許し願います。)