寄稿   「赤羽緑地自然観察ふれあい公園」   日立市南高野町   吉村 常男


赤  羽  緑  地

自然観察ふれあい公園
日立市久慈町字赤羽)
平成16年5月          
                      日立市南高野町2−2−22  
                          吉 村 常 男  
目       次

1、久慈浜の入り江       
2、日立市南部地区の開発  
3、第3回地区          
4、赤羽横穴墓群        
5、B支丘1号横穴墓      
6、 B支丘1号横穴墓の出土品
7、赤羽緑地           
 

1、 久慈の入り江


 通説として古代から中世の港(津)は、自然の地形を利用し河口や入り江に営まれたことが多く、地の利を生かした海上輸送が頻繁な時代になると天然の港が重要視され、久慈川河口もその一つであったと考えられる。
 久慈浜は、第3紀漸新世後期から中新世及び縄文時代等の海進現象によって入り江となったとされている(『茨城県大百科事典』)。その後、海退によって沖積低地が形成されたが、台地上の行戸や金井戸・曲り松等の地に集落が営まれ、住む人々は農耕や漁撈といった定住型の生活へと変化した。
 久慈川河口に位置する久慈町のうち、赤羽・芳小田・五反田・塚田・岩井崎・川萩・町田・烏内・谷原前・宿屋敷・洞谷・西谷等の小字の地は、古代より中世前半に至る間、大きな入り江となっていたのである。

[太線の内側が久慈の入り江]


金井戸や曲り松の遺跡に住んでいた人々は、赤羽の入り江に降りて来て漁撈に励んだこと が想像される。
 赤羽の周囲は、山林であったようだが、中央の低地には谷津田(谷地田)による稲作農耕が営まれていた。この水田は近現代まで続いて耕作されてきたが、明治30年に水戸・平間に開通した常磐線の軌条施設によって水田は分断され、赤羽側の水田の排水の弊害が少なくなかった。
 古老の話では、赤羽下の常磐線軌条敷地は地盤が軟弱で、盛土工事が予想以上の難工事であったことや、赤羽の水田は谷津田ゆえの「ぬかり田」があって、田植え時には丸太を渡したり、田下駄を履かないと、足が沈み作業が出来なかったと言う。

2、 日立市南部地区の開発


 日立市南部地区は、丘陵地帯の南限で多賀山地に接し、太平洋を望む風光明美な地で住宅地域としては最良の地である。
 我が国の経済は、昭和30年代半ばに高度成長期を迎え、市内には住宅団地の造成が進められた。南高野地域を中心とする当地域は、日立港の後背地域として日立市による宅地造成事業が施工され、更に昭和42年には久慈地域の水田地帯を対象として、久慈土地区画整理組合が設立されて事業に着手した。また、曲り松・金井戸地区は、企業によって団地造成工事が施工された。


                    [久慈地区土地区画整理事業前の風景]



  [久慈町吹上地区区画整理前の風景] やがてどんな町並みになるのであろうか楽しみである。


 当地域は、これらの地域に囲まれた農耕地帯であって、当時は住宅化の傾向が著しくスプロール化する恐れがあった。
 かつて地区内に決定していた都市計画街路の築造を中心とした区画街路網に対し、住民側からは県道日立港線から地区中央を貫通する都市計画街路と、南高野団地を起点として地区を縦断する都市街路や公園などの生活環境整備が求められていた。
 そこで昭和46年1月、南部第一土地区画整理組合が結成された。総面積467.000uに及び、事業計画として施工順位上、第一回・第二回・第三回の3地区に分けることとなった。施工地域の地勢は、中央より西部地区にかけてほぼ平坦で、東部地区は東南にゆるやかな傾斜を成し、東南部最端地区は二つの住宅団地に挟まれた水田が一部存在していた。当時の土地利用形態は、畑・水田等の農耕地が約65%を占め、次いで宅地が約1
5%、その他は山林・道路・共有地等であった。
 区画整理事業に伴う開発工事は、県道日立港線沿いの第一回地区から着手し、順次着工して20余年を費やし、紆余曲折・種々問題あってその都度協議しながら処理がなされた。
第三回地区に至り、残存の横穴墓群に関して発掘調査の必要性が発生し、その調査には3年という期間と高額の調査費が推定され、後述する問題も提起されるに及び、協議の結果この部分の開発を除外することに決し、その段階で本事業を終結することとした。



                 [南部第一区画整理組合施工位置図]



                   [南部第一区画整理事業地区全景]

3、第三回地区


 第三回地区は、山林20.000uを削平し、水田22.000uを埋め立てて道路を建設し、宅地を造成開発する計画であった。
 水田への侵入道路の施工工事段階に、埋蔵文化財としての赤羽横穴墓群が発見された。日立市教育委員会の意向として、横穴墓群の発掘調査を実施し記録として保存すること、他の横穴墓の保存については、この調査の成果を待って対処することとなった。
 昭和50年7月、D支丘横穴墓群の発掘調査を実施したところ、古墳時代から奈良時代の大小墓31基と、「ヒカリモ」という珍しい苔の一種が発見された。「ヒカリモ」の発見は千葉県富津市で登録され、国指定天然記念物に指定されていたが、茨城県内でも発見されてい て水戸市・西金砂神社が知られていた。これに次いで赤羽地区が三番目の発見地となったことになる。
 また、丘陵の斜面にはA支丘・B支丘・C支丘と呼称される部位に、未発掘調査横穴墓が存在しており水田跡の埋め立てに対しては軟弱地盤の赤羽横穴墓群D支丘全景ため、常磐線への影響を恐れた当時の国鉄からのクレームに加え、瀬上川への流水路取付反対など予想外の事態が発生した。協議の結果、横穴墓群について日立市が公園造りに活用することで、第三回地区の開発計画から除外することとなり、まもなく南部第一区画整理事業の完結を見、赤羽緑地として住民の憩いの場とすることになった。


           [赤羽横穴墓群D支丘全景]

4、 赤羽横穴墓群


 横穴墓は古墳時代の墓であるが、円墳や前方後円墳等に見られるような盛り土ではなく、台地の傾斜面に横穴を掘って墓としたものである。構築場所は南側向きで岩盤層である。
  凝灰質泥岩層に鉄製道具を用いて構築され、水抜き用の水路を床面に設えている。また、横穴墓群の前面には谷津田が広がっており、群集して在るのが特徴である。
   赤羽横穴墓群は久慈川河口部に位置する。
   縄文時代末期頃に始まった稲作農耕は、台地から海へ注ぐ小水路の谷の出口付近に営まれた谷津田による稲作であったが、古墳時代になると久慈の入り江の最深部が、集団によって開墾され水田化していたことがうかがえる。
   横穴墓群の全容は、中央に向かって北側から手のひら状に四つの丘陵が伸び、それぞれ西からA支丘・B支丘・C支丘・D支丘と呼称されている。



                   [久慈赤羽緑地周辺図]


5、 B支丘1号横穴墓

 墓群A〜Dの支丘のうち、ほぼその中心部に位置し、最も南側に張り出している。 当時の谷津田からは、比高差約5mである。
 横穴墓は、玄室・玄門・羨門・前庭等で構成され、玄室は間仕切りによって棺座と前室が区画され、周囲には溝が掘られていた。
 昭和51年3月の調査によると、玄室付近が崩壊して開口していた。墓内の状況については、10数年前まで老人が居住していた関係から、床板が設置されていて壁には釘が打たれ破壊されていた。しかし、玄室内に堆積していた床土には手が付けられていなかった。 このため出土品は以外に多く、冠の立飾り・金具・太刀・弓・鉄鏃・桂甲(ケイコウ、かけよろい)・小札(こざね)・武器・武具・馬具・耳輪などの副装品が発見された。
 この1号横穴墓に埋葬された人物は、これらの出土品と、その場所が周囲から離れ、入り江の最も奥まった丘陵の先端部に構築されていたことなどから、大和政権に関わりの強かった豪族ではないかとされている(『埋蔵文化財発掘報告書』日立市教育委員会編より)。


 このB支丘横穴墓は、昔から吹上げの岩穴と呼んでいた。昔(昭和5年以前)から南高野の人は、田圃や久慈浜へ行く場合、金井戸の道を利用していたので、岩穴を良く見ていたのである。その時岩穴に出入りする人影や、岩穴の外で焚き火をしたり、洗濯物を干している様子を、よく見かけたことがあった。
また、この赤羽山には藤が多く繁茂していたので、岩穴に住んでいた人が、藤蔓を加工して編んだ箕を農家に売り歩いたり、帰りには薪を拾い束ねて背負って歩く姿を見た覚えがあった。
 このように、長年岩穴で生活していたにもかかわらず、今回(昭和51年)の調査で、歴史的にも貴重な副装品が、数多く発掘されたことは、内部の土砂を動かさずに床板を設置した上で、生活していた為であろう。








        [赤羽横穴墓群B支丘 1号墓] 

6、 B支丘1号横穴墓の出土品


 赤羽地区が南部地区開発事業から除外されたのは、調査されたD支丘以外の支丘に横穴墓が残有しており、文化財保護法の規定に基づく古墳保存に重さを置けば、開発事業の変更を余儀なくされ、加えて軟弱地盤の地質調査等の結果に依っては、その対策に莫大な事業費を


       [金表層銅製冠の立飾り]                 [ガラス玉製の首飾り] 

要し減歩率に大きく影響することが予想された。
 さらに当時の国鉄からの申し入れには、軟弱地盤対策の一つとして、常磐線敷地より18m後退して長さ20mに及ぶ事業除外区域を設定せねばならなかった。
 問題は更に増え、瀬上川川口の揚水施設設置の要望が久慈町より出され、この陳情書を茨城県議会へ提出せねばならなくなったこと。横穴墓を発掘調査していた日立市教育委員会からは、B支丘1号横穴墓より「横穴式高塚古墳」の出土品に匹敵するような、久慈川流域の横穴墓出土品としては極めて貴重な副装品が発見され、D支丘全体の完全な発掘調査が必要な事態に至った。
 こうした大きな問題について、再三地主会と協議を重ね最終討議の結果、赤羽地区については日立市が買収し公園緑地とすることで意見の一致を得て終結となった。
 今日、行政と近隣市民の方々が英知を結集し、かくも立派な自然観察ふれあい公園づくりが行われたことは、当初より開発に専念され、今では亡くなられた方々も喜んでおられることでしょう。

7、 赤羽緑地


 赤羽緑地を市民の憩いの場や、教育学習の場とする整備計画づくりを、ワークショップ方式によって行った。
 平成13年10月に設立され、立地として、この地区の北側斜面全域に横穴墓群があり、中央には休耕田が湿地化し、周辺には葦(よし)ガマなどの湿性植物が生い茂って、水鳥や淡水動物の住家と餌場になっているため、野鳥などの営巣林保護として外周樹林帯は、自然のまま現状保存とした。
 湧水井戸・中央部のため池と湿地帯は、水棲動物の生息場の中心であるため、護岸や遊歩道などは部分的に設置、利活用することで計画実施し、平成15年4月29日の「緑の日」
に開園式の運びとなった。
 赤羽緑地の愛称は、広く募集した結果「自然観察ふれあい公園」と名付けられた。


      [赤羽緑地公園入り口駐車場]         [1号横穴墓と水田跡に生い茂るヨシの群生]



         [山際の遊歩道の木橋]          [駐車場より眺めた東屋右は野鳥観察施設]



     [水棲動物観察池と遊歩道木橋]